top of page
hajime_yoshida_interview.png

D三:簡単に自己紹介をお願いします。
 

吉田:吉田肇(よしだはじめ)と申します、現在はライブハウス福岡UTEROのブッキングを担当していまして、バンド・PANICSMILEのメンバーでもあります。プロフィールが長いので詳細はそちらを参照していただいて、30年近く音楽業界でサバイバルしている人、という感じでしょうか。

D三:コロナ禍でこれまで行ってきたことに規制がかかって、この間もう二十年分くらい早回しで、色々なことを考えさせられました。吉田さんは、この間どのように過ごされてましたか?何か発見したこと、気づいたことなどあれば。

吉田:や、ホントに自分も正に2020年の3月くらいからぼんやりと、そう言えば今までってどんな感じだったんだろう?と自分のこれまでの活動や生活のアーカイブ、じゃないですけど、時間が沢山あったので振り返りましたがほとんどが反省ばかりでした。2015年から5年間ぐらいUTEROでライブイベントをブッキングし続けてきたのですが、そういったバンドや音楽でコロナに対抗する事が全然できなかったんですね。音楽の力による支援、という面でですね。

D三:何かできることがないか?と思っている人も沢山いると思うのですが、そういう人たちが支援しやすい形を作ることなのかもですね。例えばそのアイデア自体を募ってみるとかってどうでしょうか?お金を生むことだけでなく、UTEROがよりよい場所になっていくこと、より使いやすいところになるアイデアとか。以前はバンドブームなどの影響で沢山バンドやDJがいましたが、現在は随分減ってるんですよね?

吉田:そうですねそこですよね、場所があり、技術者は居る。ただその財産がなかなかこの状況下では有効に使えない事を思い知った2年間でありました。2017年くらいから出演者の数が減ってきていてそこに更に今回のパンデミックでトドメ、といった感じです。そして正に転換のアイデアですよね、そのトドメ以降、はっきりしたパラダイムシフトを感じています。ここでライブハウス側が発想の転換が出来なければ本当にジ・エンドなんだと思います。出演者の減り方で言うとですね、まず4人、5人で集まって音楽を演奏する「バンド」という形態が少なくなっている、というのがあります。そこも大きな変化の一つかと思うのですが、iPhoneのアプリ・ガレージバンドでトラックを作って、一人で歌う、というスタイルがだいぶ多くなって、アコースティックギターで一人弾き語り、というアクトを含めると全体の半数は非バンド形態という現状ですね。あとはその形態以前の話しで、音楽性とその背景にある動機、でしょうか。過去との比較になりますが90年代はメジャー契約・デビューを目指すミュージシャンと同じくらいの割合で就職して働きながら音楽・バンドをやる人種がいて、その分音楽性の幅や奥行きが豊かだったと思うんですね。この後者のタイプがだいぶ減ったと。で、これはUTEROの話で、同じ福岡市内で場所を移すと若い人達のロックバンドは意外に多くて、ただそのアーティスト達の音楽性はいわゆるJ-ROCKなんですね、ここには今流行りのシティポップ系も含まれるんですけど。つまりUTEROがだいぶオルタナに寄っている、という事なんですが。

D三:おそらくほとんど多くの業種でも、これまでを継続しても成立することが難しいのは、似たような状況なのかなとも思います。これだけグローバル企業が収益を上げ、携帯電話など、以前なかったことにお金を使っているわけですし。生まれた時からインターネットがある世代だと、「逃さん!」というくらいエンターテイメントに包囲され、享受するだけで時間がなくなってしまいそう…。自分も今、中学生だったら「バンドをやりたい」と思うようなことは起こらなさそうな気がします。そう考えると、インターネット以前を知る世代が何を行うかが重要なんじゃないかなとも思うのですが、現在、可能性を感じる事、魅力を感じる活動を行うアーティストや人、お店、会場などってありますか?

吉田:先日、テレビで大槻ケンヂやたまの石川浩司さんがナゴムや80年代のインディーズについて喋っていたんですが、やはりインターネット前と後というポイント(10年近くあるんでしょうけど)が確実に分岐点なんだな、と。それで今2022年で自分にとって面白いバンドやアーティストはどうなんだろう、と考えてみると例えばですが自分自身が80年代・90年代のメジャーバンド、なんならナゴムに対しても「メインストリームなんてくそっくらえ」という衝動を持っていた20代だったんですけど、今だとインターネットの情報やSNSミュージシャン、iPhoneミュージシャン、イヤホンミュージックなんてくそっくらえ(とまでは思っていないかもですが)的なスタンスの20代の若者に焦点が当たるんですよね。その点から思い浮かぶのはハチマライザー、SetagayaGenico、30代後半になりますが笹口騒音君の各バンド・うみのて、NEW OLYMPICS等、あとはtofu on fire、SACOYANS、そして最近活動を開始した宇都君のALLESWITZ、元RAMTAGの諸富君の新バンドAcademy Fight Song、あとはPlease in the morningとかでしょうか。宇都君やAcademy、Pleaseは思いっきり自分と同世代の人たちによる新バンドですがあまり世間の流れと関係なくマイペースでいい演奏をしているな、と。

D三:こんな時代だから気にせずやりたいことを続けるって、真っ当でいいですね。紹介してもらったものも殆んどyoutubeで聴けましたが、知らない人たちばかりでした。全て福岡の人たちなんですか??

吉田:そうです。さっきは言いましたが、そこまで露骨に尖がった人達ではもちろんないですけど。笹口君が東京でバンド活動を開始して、一人こっちに戻ってきて、メンバーは東京に居たり、福岡に居たりみたいなバンド編成だったりするんですけど、彼が多分30代半ばなんですがSNSの使い方とフィジカル面・楽曲や歌詞、あとライブとMCのやり方が凄く上手い気がします。や、これは僕が単に彼らの楽曲が好きだからというのもあるけど、バランスが良いんですよね。ライブとSNSと曲の難解さとポップセンスの分量が。20代のバンドと40代のバンドの本当にど真ん中の混ざり具合、というか。

D三:おすすめされていた人たちで、若い人たちは上手な人たちが多いなという印象を受けました。表現として、挑む感じで音楽を使っているようなものに興味があるのですが、福岡に限らず、そんな音楽だったり、音楽じゃない別の表現だったり活動だったりで、思いつくものって何かありますか?
 

吉田:Doravedeoの一楽さんが半年から3カ月に1度くらいのペースでモジュラーシンセを使ったパフォーマンスをしにUTEROに来ていて、そのイベントで日本各地のモジュラーシンセやノイズの機材を使ったアーティストを紹介されていて、かなり先鋭的な表現をそこで観れるんですが福岡ではまだまだ認知されていない気がします。もうだいぶ前になりますがPHEWさんのライブも音楽という重力にとらわれず軽く羽ばたいている無限の表現でした。そこですね、若い人でその超えてしまっている感じのものにはなかなか出会えてないですね。コード理論やリズムの重力、だったりするんでしょうか。それはロックバンドが演奏する場所=ライブハウスという観念の重力と同じというか、このライブハウスという場所で働いていて、日々ここを守るために忙殺されている状態だとアンテナは折れているも同然なのかもしれません。これはずっとそういう状態で、90年代のVIVRE HALL勤務時代からのジレンマですね。

D三:90年代の福岡もいろんなタイプのバンドやアーティストがいて、思い返すともっと雑多な感じだった印象があります。たとえば音楽だけでなくても、バイクだとアメリカンとか、ロッカーズ、モッズ、走り屋、車も色々な車が走っていて、色にしても、もっと様々な色の車が走っていたような気がします。いろんな<もの>だったり、<こと>だったりが、まとまってきたように感じることが多くあります。方言がなくなっていってる感じなども。車を駐車する際にバックでハザード点けて駐める車って昔はそんなにいなかったけど、今は頭から突っ込んで駐車している車を見かけることが少なくなったような。。マナーとかモラル、そして同調圧力的な感じが少しづつ少しづつ強まって、当たり前ではなかったことが気づかない内にに当たり前になって、なんだか東京ぽくなってきているというか。選択肢はインターネットの普及で増えつつも、結果的に効率的なことを目指し、コストパフォーマンス至上主義的な社会になってきてる感じがします。90年代はバブルの影響やインターネット登場前夜で、マックスまであらゆるモノが溢れていた時代でアナログの最全盛期だったのかもなと。インターネット登場前夜と登場後、どちらも知っていて何がしか活動を継続している世代って、40代以上かなと思うのですが、ここにあたる人たちだからこそ出来ることがたくさんあると思ってまして、インターネット登場以前に行なってきたことで、インターネットを使って行うことによってできることって沢山あるのに、それに気づけてなかったり、試してみてなかったりして、もったいないことをしてるのだろうなと思うんですよね。実践することで、これまで大切だと思っていたことが、そうでもなかったり、気にしてなかったけど、とても大切なことだった等、より本質のようなものに近づいていけるんじゃないかなと。
 

例えば、今、僕が20歳だったとして知りたいことをグーグルを使って検索しますよね。実際二十歳くらいの頃にベースが動くバンドを探していて当時、パニックスマイルのベーシストだった鳥井さんに尋ねたところ「これ知ってる?」ってコントーションズの"Dish It Out"を聴かせてくれました。それでその曲が収録されていた『VA:NO NEWYORK』を知ったのですが、先日"ベースが動く" "バンド”とか、”パンク”など色々なキーワードを追加したりしながら、結構頑張って検索してみたのですが、<コントーションズ>はどうやっても導き出せませんでした。。
 

僕が(気に入るだろう)と、鳥井さんが僕のこと想像し聴かせてくれたから知ることができたわけで、ビッグデータでも、いつかはどうにかできることではあるのかもしれませんが。一般的なことであれば導き出しやすく、その弊害が今の社会の感じを作り出している大きな要因の一つのような気がしています。今後、精度は更に上がってきて何でも導きだせるようになったら、今より更に人と会話する必要性もなくなっているのだろうし、その傾向は想像を超えるくらいに加速してそうだし怖いですよね。誰とも話すことがない社会で、ケーブルか何かに繋がってカプセルか何かの中で過ごすみたいな…。インターネットの登場前夜とその後って戦前と戦後くらい、もしかしたらそれ以上の違う社会になるかもですね。因みに吉田さんはどのような経緯で『VA:NO NEWYORK』を知ったのでしょうか?

 

吉田:ええ、本当に。先にも言いましたが最近テレビでやっていた80年代のナゴムの関係者による証言トーク番組でも正にそのインターネット前とインターネット後が一つの分岐点であると。アプリの進化でスマホのカメラで撮った人物の顔は本当に本人なのか信用できないくらい全員同じ顔になりますよね。コントーションズがそのキーワードで検索して出てこなかったというのも、それまでは紹介する人たちそれぞれが持っていた「言葉」が便利ツールで「コピペ」されるようになって画一化された証なのではないでしょうか。コスパ重視の果てにテンプレートがあってそれ以外の表現は「ムダ」化され、ちゃんとしたレビューではないような扱いとなる。。。怖いですよね。学識がなくても書かれた個人的な主観に基づいたレコメンドが無くなったように思います。音楽も文章も、写真もデザインも同じことが起こってますよね。
 

コントーションズに関しては自分はまずパンク関連のレビュー本で高校生の時(1985年頃)に『VA:NO NEWYORK』を知ったんです。そしてそのレコードを探しにレコード屋に行くと一緒にジェームス・チャンス関連のレコードが揃っていて、今は無くなりましたが当時は1枚1枚店主の手描き作品紹介が貼ってあって、それを読んで購入、という感じですね。何と書いてあったかは覚えてませんが、ニューヨークパンクは実はロンドンパンクより本当に既存のロックを破壊してる!的な事が書いてあったと思います。それで飛びつきますよね。当時のレコードの店主による手書きのコメント札は鳥井君のお勧めと同じだったのでしょうね。実際に店頭に行かないと入らない情報で、レコード店がパブリックスペースだった時代ですね。

D三:素晴らしいと感じるものについての出会い方、どのようにもたらされたかを考えた時に、音楽の場合だと、若い頃は雑誌やラジオ、テレビなども少しありはしましたが、基本的には友人・知人からもたらされる情報がほとんどで、これも自身が尋ねるから入ってくる情報であって、尋ねなければいつまでたっても知りようがないし、知ってそうな対象がいることで尋ねることもできるわけですが、パニックスマイルと出会うまで自分の周りには福岡にも長崎でもおそらく『VA:NO NEWYORK』のことを知っている人はいませんでした。東京や大阪であってもほとんどの人たちは知らない音源ではありますが、都市には『VA:NO NEWYORK』のような音楽を求める人、実際知っている人の数も多く、求める人には得やすい環境でもあるのかなと想像します。良し悪しがあるとは思いますが、実際に福岡から東京へ拠点を移して、そのような都市と地方の差のようなことで、印象的なことなどはどのようなことがありましたか?

 

吉田:そうですね、そこはやはり自分たちが東京から呼んで福岡ライブを企画した突然段ボールやKIRIHITOの存在が大きかったと思います。突然段ボールの当時のドラマーはチコ・ヒゲ(ex.FRICTION)で当時のNYシーンを良く知る人でしたし、突然段ボールは80年代にHENRY COWのフレッド・フリスやケヴィン・エアーズのバンドに居たロル・コックスヒルとコラボレーションしてますよね。そこから一気に知っていくんです。そしてデュオ編成で未知のミニマルパンクを演奏するKIRIHITOは自分にとってかなり存在が大きかったです。SILVER APPLESはKIRIHITOの圏さんに教わりました。こういう人達が沢山いる街東京に住んでみたい!と思ってその勢いだけで引っ越しちゃいましたから(笑)。
 

そして引っ越してみたら、当時メインで出演していた(職場でもあった)高円寺20000VOLTはそういうバンドしか出てなかったですし、メインストリームの流行とは全然関係がなくて、そこで毎日演奏を観ていると今が何年代なのかとか時間的な事がよくわからなくなってくるんですよ。ジャンルがどう、とかあと地方都市でよくあるバンド間優劣みたいなものとか音楽で成功する、とかが本当にどうでもいい場所なんですよね。新しいから良い、古いからダメ、とかも無い。東京=日本の音楽の最先端では無い、と知るんです。や、それが自分にとっての最前衛だったんですけど。出てるアーティストが全部未体験ゾーンで全部面白い。だから普段どんな音楽聞いてるんですが?って訊きまくりました。そこでどんどん知るんですよ。福岡で知れなかった音楽を。あと、はっぴいえんどの曲をBREAKFASTのサカイさんが対バンした時に楽屋で一人で弾き語りしてて、パンク・ハードコアのバンドの人が皆に普通に音楽ファンなんですよ。歌謡曲でもテクノでもジャズについてでも何でも話せてジャンルの隔たりが全く無い。なんか懐が深いなあと思いました。

D三:僕が長崎から福岡へ出て行ったときの感じにも少し似てるような気がします。おそらくサカイさんのような人は、東京でもかなり希少でしょうけど(笑)。やはり、上の世代の人たちが現役で活動を継続していて、現場にいることが大きそうな感じがします。継続するには熱量が重要で、魅力を感じるものがある、探究心がないと難しく、待ちの姿勢では不可能ですよね。そのような人たちが周りにいるのと、あまりいない、ほとんどいない、全くいないでは、参考になったり自身を省みることも難しいわけですし。音楽はどこに住んでいても聴くことができるようになったけど、そういう人たちがどのような態度で表現活動と向き合っているのかを見たり、実際に接したりする人が、その影響を受けて、それがまた伝播していく感じもあるでしょうし。今回、吉田さんを長崎にお誘いしたのもそこの部分なんです。あとP-vineのことや、インターネット上には載せれない、載せようがないお話しなども伺えたらなと。自分が東京へライブで行ったりして印象的だったのは、会場を訪れる人が音楽をやってる人だけでなく、舞踏や演劇、映像やってる人など集う人たちに幅があるところでした。こちらにはないところだし音楽の前の部分、表現したいところ、指向性のようなところで人が繋がり刺激を与え合っているのだろうなと。それぞれ魅力的に感じるものについて情報が集積されていくでしょうし、感性が培われていく環境が恵まれている。魅力的なものが生まれやすい環境があるのだなと。関西なんかもこちらと比べるとそう見えるし、福岡にしても長崎からしたらそう見える。ただ生まれにくい環境でも生むことができるもので魅力的なものは、地方で東京や関西のマネしてても似たようなものしか生まれようがない、そもそも知らないわけですが(笑)。音楽に限らずこれまでは表現活動を地方で継続することで難しかったこともインターネットの登場により随分改善できていることもある。ただ、まだまだ活かしきれてなく、その間どんどん活動を継続する人は減り、周りを見渡したら殆ど残っていない、と、言ってもゼロではない。そしてこのコロナ禍があった。これまで行えていたことが行えなくなった期間に考えたことをこれから活かして行うことが、これからに繋がっていって、あとで、(あの時こんな感じでやってた人たちがいたのに刺激を受けて)、「自分も音楽を始めた」とか、「続けることができた」等、新しい活動を生む<胎動期>みたいな感じに結果的になる可能性もある。そのヒントみたいなことを当日見つけれたらなと。

吉田肇(よしだはじめ) PANICSMILE / HEADACHESOUNDS / UTERO

1970生まれ。1990年~九州産業大学在籍時に福岡市天神にあったVIVREHALLでスタッフを務める。92年に自身のバンド活動を開始。98年にVIVREを退社、バンドメンバー全員で東京に移住、99年1月~00年末まで高円寺のライブハウス20000VOLTでブッキングを担当。00年1月~01年末まで音楽プロダクションi3プロモーションでスタッフを務め、01年末からライブハウス秋葉原CLUB GOODMANでブッキングを担当。
06年5月に退社、音楽レーベルPERFECT MUSICを立ち上げる。07年に同社内でCDレコードショップSun Rain Recordsを開店。09年に音楽レーベルP-Vine Recordsで制作ディレクター業務を開始。11年~13年まで親会社のSPACE SHOWERNETWORKのディストリビューション業務と同社のライブハウスWWW(だぶりゅうだぶりゅうだぶりゅう)にてイベント制作業務を兼任。
13年に福岡に移住、15年から現在まで福岡UTEROにてブッキング業務を担当、現在に至る。

yoshida_hajime_00.png
bottom of page